信心の血脈の意味するところ 行躰即信心と師弟不二

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広布の歴史に燦然と輝く「2月闘争」の内容に触れ、また、新人間革命第30巻・大山の章を読み、現代における「広布拡大の実践の模範」たる師匠の重要性をますます感ずる次第です。

「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり(生死一大事血脈抄1338ページ)」と。

また、『「行躰(ぎょうたい)即信心」が、日蓮仏法である。「行躰」とは「行動」である。法のため、友のため、社会のために「動く」ことこそ、身で法華経を読んでいる姿なのだ』とは、池田先生が折りに触れては語られる納得のご指導であります。

信心の血脈における信心とは「行躰即信心」、すなわち、実践に尽きるのであります。

さらに、御書にいわく、「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず(華果成就御書900ページ)」とは、師弟不二の信心以外の何ものでもありません。

つまり、「行躰即信心」の最高無上の模範を示される師匠との師弟不二の信心にこそ、「信心の血脈」は通うということであります。

上記を確認した上で、以下の一文を残しておきたいと思います。

日蓮仏法の血脈は師弟不二の信心にのみ存在する

信心の血脈に対し、「法体の血脈」について、『日蓮大聖人が末法万年(まっぽうまんねん)の一切衆生を成仏に導くために、仏法の奥義(おうぎ)すなわち本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊を日興上人お一人に相伝された唯授一人の血脈』との指導が存在する。

「時の貫首(かんず)たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義(こぎ)を構へば之(これ)を用(もち)ふべからざる事(日興遺誡置文御書1885ページ) 」とあるがどうか。

これに対し、「衆義(しゅうぎ)たりと雖(いえど)も、仏法に相違(そうい)有らば貫首之を摧(くじ)くべきこと(日興遺誡置文御書1885ページ)」と反論。

しかるに、仏法への相違とは、日蓮大聖人の「広布大願実現への実践の有無」にあるのではないか。

日蓮大聖人の模範の実践

日蓮大聖人は、御自らが、広布大願・弘法の為には、命にも及ぶ数々の難をものともせず、不惜身命の実践を貫かれた。故に諸天の加護も厳然であられた。これをもって、門下に対し、最高無上の模範を示されたのである。そして、我に続け!と再三、仰せになっておられる。

その大聖人の仰せに心を合わせ、勇気ある実践に踏み切る師弟不二の信心にのみ、仏法の血脈は通う。

法は常に厳然として、胸中の肉団におわしますなり、と仰せである。さらに法は、有情非情にわたる万有のものである。

権威・権力とつたなき者のならひ

時に、権威・権力は、この法に神秘性を持たせて、民衆を睥睨(へいげい)し、好きなように翻弄。民衆を私物化して来た。それは古今東西の史実に明瞭である。

御書にいわく、「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし(御書234ページ)」。しかるに、「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし(同御書)」とある。

つたなき者は、法戦を離脱して、自分に最も都合の良い、なんらかの権威・権力を後ろ盾にしようとするが、そこには既に「法」は存在しない。

かくなる権威を振りかざす者の中に、模範の実戦を示せる者が皆無であることを知るべきである。

信心の血脈は師弟不二の信心に

日蓮大聖人のご生涯そのものが、民衆救済の為、この権威・権力への果敢なる挑戦のご一生であられたことを忘れてはならない。

師弟不二の信心が通うところ以外に、信心の血脈は断じて無い。

故に、現実に、妙法流布の実践の模範を示される師匠が誰なのかという認識こそ、大事中の大事である。

いつの世にあっても、実践の模範を示す師匠との師弟不二の信心に生きるべきである。

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