お題目で叶えたこと について

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お題目で叶えたこと、すなわち、創価学会員としての信仰体験については、筆者自身に様々なものがあります。

ここでその主なものを種々振り返ってみると、棚からボタモチ的なものは一つも無かった・・というのが実感です。長い人生、時には思わぬ所からの恩恵もありました。この場合、そのときは「功徳だ」とは言っていたかもしれませんが、お題目で叶えたこと(体験)としては、はなはだ記憶に薄い出来事だったように思います。

お題目根本に祈って行動した結果に叶ったことのみ、鮮烈な功徳の記憶として心に残っています。

また、自身の仏界を開き顕していくという仏法の真髄からしても、お題目で叶えたこととは、祈り・行動し、勝ち得たものであるはずです。

私の父方の祖母も晩年、南無妙法蓮華経のお題目をあげきり、想像も及ばない境涯で霊山に旅立ったものと確信しています。

祖母がお題目で叶えたこと

私の祖母は気の強い人で、女手一つで子供たちを育てたという気概に満ちていました。晩年も、数人の子供たちの家庭よく回っていましたが、身体が利かなくなってきた最後の方では、ほとんどたらい回しの状況で、やっと次男である父の(筆者の)家に落ちついたのでした。

当時の私は小学校の4年生。我が家に落ち着いた祖母は痴呆状態でしたがお題目をよくあげるようになり、やがてまともな会話も出来るように・・。ついには、任用試験にも合格するに至りました。

その後、身体が弱って来て、老衰状態が進行。食事もあまり摂れない状態で、身体全体がむくんで参りました、特に顔のむくみは悲惨で、目もあてられないほどでした。そんな中、床から起き上がれなくなった祖母は、床の中で南無妙法蓮華経と日中から一晩中唱え続けておりました。

早朝、祖母の唱題の声が途絶え、家族で見にいくと、亡くなっておりました。

ところが、家族全員が驚きを禁じ得なかったのは、あれだけむくんでいた顔がすっきりと肉うすの別人のように変貌していたことです。少女のような感じになっていて、いわゆるは半眼半口。安らかな寝顔のようでした。

この時の衝撃は、筆者の生涯忘れられない信仰体験として残っています・・。

祖母がお題目で叶えたこと。それは、想像も及ばない境涯を得たこと。そのように思えてならないのです。

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題目と御本尊への祈り

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